蒲生麓 標柱
-
蒲生麓 標柱
蒲生どん屋敷 標柱23
保安4年(1123)に蒲生に入ったとされる蒲生上総介舜清は、その屋敷を現在の下久徳(本長谷バス停から200メートル北あたり)に屋敷を構えたといいます。
城山にも蒲生城(竜ヶ城)を構えたが、平時はこの屋敷に住まったといわれていますが、今ではその面影はありません。
2023年6月16日詳しく見る蒲生どん屋敷 標柱23
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
幽栖寺 標柱22
薩摩藩では約300年のあいだ念仏(一向宗)禁制となっていました。
明治9年に信仰自由の発令を受けて、野町と米丸の門徒たちが組織した真信講が中心となってお寺を造ることにしました。
明治10年に豪商渕上常右衛門らの喜捨によって蒲生説教所が開設され、明治13年には本堂が建立されました。そして明治23年に正式に幽栖寺と寺名を公称し現在に至っています。
2023年6月16日詳しく見る幽栖寺 標柱22
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
下馬場 標柱21
今でも多くの武家門が残る中原通りは、古くから下馬場と呼ばれています。
昭和30年代に県道として拡幅される以前は、写真のように幅6メートルぐらいの静かな通りだったようです。
2023年6月16日詳しく見る下馬場 標柱21
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
蒲生どん墓 標柱19
後田橋をわたった川東には蒲生氏の菩提寺であった法寿寺跡があり、そこに歴代蒲生氏の当主と一族の墓である五輪塔が31基残されています。
今ある墓は第8代以降のもので、7代以前の墓はいまだ土の中に眠っているそうです。塔には梵字などの銘文が刻まれてかつての栄華を静かに物語っています。2023年6月16日詳しく見る蒲生どん墓 標柱19
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
上馬場(町馬場) 標柱18
江戸から明治時代にかけて、商店は「野町」とよばれる限られた場所に集まっていましたが、大正時代から昭和期にかけて段々と現在のくすくす館の方まで広がっていったようです。
大正時代、「蒲生市」(今も続いている)が開かれた際は、歩く事もままならないほどの賑わいをみせていました。2023年6月16日詳しく見る上馬場(町馬場) 標柱18
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
後田馬場 標柱17
現在、住宅が多いこの通りですが、昭和初期から中期にかけて、竹内医院(産婦人科医、後に姶良町へ移転)、福応寺(後に新辻馬場に移転)をはじめ、眼科医院、風呂屋、鍛冶屋、下駄屋、桶屋、電気屋、鰹節屋、青果屋、豆腐屋などがあり、大変賑わっていました。
2023年6月16日詳しく見る後田馬場 標柱17
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
むかしの家造り 標柱13
家作りはむかしも今も大変ですが、むかしは隣近所の人たちと一緒に家を造る喜びをわかちあっていました。
「地突き」と呼ばれる綱を引っ張り、柱を地面に落とす儀式もその一つで、地を固め、家が長く息災であることを願ったのでしょう。2023年6月16日詳しく見るむかしの家造り 標柱13
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
福応寺と秋葉神社(アッカサー) 標柱12
現在ある福応寺はもともと後田馬場にあり明治34年に創設されました。
その後、新辻馬場に移り浄土真宗本願寺派のお寺として今に至っています。
福応寺のそばにはアッカサーとよばれる不動明王の化身が浮き彫りされた石刻像があり、秋葉権現と呼ばれ火神としても崇められています。
2023年6月16日詳しく見る福応寺と秋葉神社(アッカサー) 標柱12
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
平田川と焼酎づくり 標柱11
八幡馬場を神社の鳥居側から南に約400メートル歩いて行くと前郷川となります。
昔はそこに橋がなく、川面へ向かう石畳の下り坂がありました。
江戸時代には、そこで汲んだ水を運び、現在の富士タクシーがある場所付近にあった造り酒屋で焼酎づくりが行われていたそうです。
2023年6月16日詳しく見る平田川と焼酎づくり 標柱11
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
国鉄蒲生町駅跡 標柱9
今、くすくす館がある場所には、むかし、国鉄蒲生町駅がありました。
「駅」といっても汽車は通っていませんでした。実は、全国でもめずらしい国鉄(今のJR)バスが停まる駅だったのです。
平成15年にくすくす館がオープンし、今はその思い出だけが残る「駅」になっています。
2023年6月16日詳しく見る国鉄蒲生町駅跡 標柱9
2023年6月16日蒲生麓 標柱
SHARE
- ホーム
- 新着記事