2023年06月 のアーカイブ
-
霧島神社 標柱24
蒲生氏居城以来、蒲生氏の人々は霧島神宮(旧・霧島町)に月に一度参拝していましたが、あまりに遠方なので、神様をわけてもらってこの地に祀ったとされています。
境内では、昭和40年代までは子ども相撲が行われるなど、地域住民に大切にされている場所となっています。
2023年6月16日詳しく見る霧島神社 標柱24
2023年6月16日 -
蒲生麓 標柱
蒲生どん屋敷 標柱23
保安4年(1123)に蒲生に入ったとされる蒲生上総介舜清は、その屋敷を現在の下久徳(本長谷バス停から200メートル北あたり)に屋敷を構えたといいます。
城山にも蒲生城(竜ヶ城)を構えたが、平時はこの屋敷に住まったといわれていますが、今ではその面影はありません。
2023年6月16日詳しく見る蒲生どん屋敷 標柱23
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
幽栖寺 標柱22
薩摩藩では約300年のあいだ念仏(一向宗)禁制となっていました。
明治9年に信仰自由の発令を受けて、野町と米丸の門徒たちが組織した真信講が中心となってお寺を造ることにしました。
明治10年に豪商渕上常右衛門らの喜捨によって蒲生説教所が開設され、明治13年には本堂が建立されました。そして明治23年に正式に幽栖寺と寺名を公称し現在に至っています。
2023年6月16日詳しく見る幽栖寺 標柱22
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
下馬場 標柱21
今でも多くの武家門が残る中原通りは、古くから下馬場と呼ばれています。
昭和30年代に県道として拡幅される以前は、写真のように幅6メートルぐらいの静かな通りだったようです。
2023年6月16日詳しく見る下馬場 標柱21
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
質屋小路 標柱20
江戸時代、ここあたりは「野町」という商人が集まった場所でした。
野町の入口には「垂れん口」と呼ばれた門があったそうです。
明治初期の質屋・四代渕上常右衛門は特に成功し、明治10年の西南の役の際は、鹿児島へ帰る途上の西郷隆盛をもてなして自宅に1泊させたそうです。
2023年6月16日詳しく見る質屋小路 標柱20
2023年6月16日 -
蒲生麓 標柱
蒲生どん墓 標柱19
後田橋をわたった川東には蒲生氏の菩提寺であった法寿寺跡があり、そこに歴代蒲生氏の当主と一族の墓である五輪塔が31基残されています。
今ある墓は第8代以降のもので、7代以前の墓はいまだ土の中に眠っているそうです。塔には梵字などの銘文が刻まれてかつての栄華を静かに物語っています。2023年6月16日詳しく見る蒲生どん墓 標柱19
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
上馬場(町馬場) 標柱18
江戸から明治時代にかけて、商店は「野町」とよばれる限られた場所に集まっていましたが、大正時代から昭和期にかけて段々と現在のくすくす館の方まで広がっていったようです。
大正時代、「蒲生市」(今も続いている)が開かれた際は、歩く事もままならないほどの賑わいをみせていました。2023年6月16日詳しく見る上馬場(町馬場) 標柱18
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
蒲生麓 標柱
後田馬場 標柱17
現在、住宅が多いこの通りですが、昭和初期から中期にかけて、竹内医院(産婦人科医、後に姶良町へ移転)、福応寺(後に新辻馬場に移転)をはじめ、眼科医院、風呂屋、鍛冶屋、下駄屋、桶屋、電気屋、鰹節屋、青果屋、豆腐屋などがあり、大変賑わっていました。
2023年6月16日詳しく見る後田馬場 標柱17
2023年6月16日蒲生麓 標柱 -
製糸工場 標柱16
明治時代から昭和の初めにかけて蒲生では養蚕が盛んでした。
昭和7年頃には577戸の養蚕農家がいたそうです。
蒲生橋を南に渡った所に機械製糸工場があり、アメリカに絹糸を出荷していました。
昭和15年に閉鎖されるまで、村の婦女子にとっての良い職場となっていました。2023年6月16日詳しく見る製糸工場 標柱16
2023年6月16日 -
辻馬場 標柱15
今もお店が多い通りですが、昭和時代には提灯屋、髪結い、鍛冶屋、馬車の待合所など様々なお店がならび大変賑わっていました。
今の蒲生薬局の場所は以前、厚地旅館、旭相互銀行(今の南日本銀行)などが建っていました。2023年6月16日詳しく見る辻馬場 標柱15
2023年6月16日
SHARE
- ホーム
- 2023年06月 のアーカイブ